教理説教:“復活の二つの局面”

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ハイデルベルク信仰問答説教
聖書箇所: コリント人への信徒への手紙15章20〜24;35〜54節
説教題 : “復活の二つの局面”
讃美歌
頌栄 – 詩編66編 1,2,5
説教の前- 詩編25編 1,4
説教の後- 詩編135編 1-4
頌栄 – 詩編97編 1,4,5
第17主日
問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答  第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、
御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずから
せてくださる、ということ。
第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、
ということ。
第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちた
よみがえりの確かな保証である、ということです。
イエス・キリストに見倣うという意味
“イエス・キリストに見倣う”という言葉の意味を良い方法とよくない方法二つに分けてる事が出来ます。一つ目の意味は、キリストを“模範”として扱う事です。代表的なグループが自由神学と現代の福音主義者達の見解です。自由神学たちは、イエス・キリストを私たちの救い主として信じるのではなく、道徳的な模範者として理解します。彼らは、“イエス様のように”という言葉をよく使います。その表現は、私たちが使う“表現”と同じですが、その意味は全く違います。彼らにとってイエス・キリストは、救い主ではなく、道徳的に学ぶ価値がある良い人に過ぎません。イエス様は、もっとも善を行った人であり、人間が必ず学ぶべき生き方を示したので、その生き方を学ぶべきだと主張します。広い意味で、そのような見解は、ユダヤ人たちの見解と同じいものである事がわかります。ユダヤ人たちは、イエス・キリストを優れたラビの一人だと思ったからです。
 また、そのような見解は微妙に違いますが、現代の福音主義者たちからも見出す事が出来ます。彼らは、イエス・キリストを神様の御子であることを信じます。それと共にイエス・キリストの生き方に見倣うことを教えます。イエス様には12名の弟子たちがいました。その事を見倣って、私たちも弟子を養成しなければならないと言います。また、イエス様は40日間断食をされました。また、静かな所で祈りを捧げ、病に襲われている人々、弱い人を助けて下さいました。それらの事を見倣わなければならないという事です。
 現代の福音主義者たちはイエス・キリスト神様の御子として、救い主として信じています。しかし、彼らは、イエス・キリストに見倣うと」いう意味を正しく理解していないという事です。
では、‘聖書的なイエス・キリストに見倣う’という意味はなんでしょうか。聖書は、イエス・キリストを“信徒の模範”として教えています。しかし、信徒の模範としてのイエス・キリストは、道徳的な模範でも、生き方の模範でもありません。“救済的な働き”で、イエス・キリストが歩まれたそのお働きが信徒に適用される事です。もっと簡単に申し上げると、“イエス・キリストが十字架の上で死なれたように、私たちも私たちの罪を十字架に釘つける事です。” それが、聖書が教えているイエス・キリストに見倣う事です。
 聖書が教えているイエス・キリストに見倣うことは、イエス・キリストが行われた行動をコピーすることではありません。イエス・キリストに見倣うという意味は、単に“イエス・キリストが弱い人々を愛されたように、私たちも隣人を愛しましょうという意味もありません。また、イエス・キリストが被造物の人間に仕える為に謙られたように、私たちも謙りましょうという意味でもありかせん。イエス・キリストに見倣うという意味は、イエス・キリストがなしとげっらえた9歳のお働きに見倣うことです。
 そういう意味で、私たちが、見倣うべきイエス・キリストのお働きは復活です。聖書は、イエス・キリストが復活されたように、私たちも復活すると教えているからです。この主題が、今日、私たちが教理問答を通して学ぶ内容です。
キリストの復活と私たちの復活
 イエス・キリストの十字架の死は、死に負けた死ではなく、“復活のための死”です。それで、「ハイデルベルク教理問答」問45は、次のように記しています。“この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ”。しかし、イエス・キリストの復活は、イエス・キリストご自身だけの為の復活ではありません。イエス・キリストを信じる全ての人々が復活される為の出来事です。それで教理問答は、“この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ”と記して、“御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる”と記しています。それで、私たちはイエス・キリストに見倣う信仰生活を次にように定義する事が出来ます。イエス・キリストに従って罪の為に死んで、イエス・キリストに従って復活する事です。
 コリントの信徒へ手紙一15章20節にはこの事が次のように記されています。
“ しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。”
イエス・キリストが十字架の上で死なれたことと復活されたことは、信徒である私たちと調節に関係がある出来事です。私たちは、イエス・キリストが十字架の上で死なれたように、私たちも罪に対して、また、古い人に対して死ななければなりません。なぜなら、そうした時、わたさいたちもイエス・キリストが復活されたように、罪から解放されて、古い人から復活して、新しい人に生まれ変わることが出来るからです。
復活の二つの局面
そういうわけで、復活には二つの局面があります。
1、一つ目の局面
 復活の一つ目の局面は、復活とは、遠い未来に起こる復活ではなく、“すでに私たちあ経験した復活”であるということです。なぜなら、聖書は、キリストの死と復活を私たちの“罪”を関連して教えているからです。それで、次のように言う事が出来ます。私たちは、“すでに”、罪に対して死んで、新しく生まれ変わった存在である。” それで、復活の一つ目の局面は、復活は、私たちがイエス・キリストを信じて救われるその時、行われると言う事です。すなわち、救われること、生まれ変わることが復活であると言う事です。聖書は色んなところでその事実を教えています。
1) ローマの信徒への手紙6章4〜5節です。
 “ 4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。”
 好み言葉は、私たちはイエス・キリストの死に見倣って洗礼によってキリストと共に死んで、また、イエス・キリストに見倣って、イエス・キリストと共に復活させらえると言うことを教えています。4節最後には“わたしたちも新しい命に生きるためなのです。”と言う言葉に注意を払いたちと思います。6章4節の御言葉は、信徒がイエス・キリストを信じて洗礼を受け、救われた事を、“新しい命に生きる”事だと教えています。この御言葉は、イエス・キリストの復活は、はるかに遠い未来のことではなく、この世で洗礼を受けて、生まれ変わる事、救われることだと教えています。復活は現在的です。私たちは“既に”復活されました。復活は、既に私たちに行った出来事です。
2)エフェソの信徒へての手紙2章5節です。 
“ 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、——あなたがたの救われたのは恵みによるのです——”
 このみ言葉は、“神様が、既に、私たちをイエス・キリストと共に生かしてくださった”ことを教えています。神様は、私たちに復活の恵みを既に与えて下さいました。5節は、その意味何であるかも教えています。“あなたがたの救われたのは恵みによるのです。” すなわち、復活は、私たちが神様の恵みによって救われた事と同じ意味であると言う事です。私たちは、イエス・キリストを救い主として、信じた時、既に“死から解放され復活”されたのです。
2)コロサイ信徒へての手紙3章1節です。
“さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。”
“あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、”と記されています。私たちが既に復活されたと言う意味です。このみ言葉は、私たちが上にあるのを求めなければならない理由を何だと教えているのでしょうか。“キリストと共に復活させられたのですから”だと教えています。この世で、私たちが、神様の民として真実な信仰を持って生きるべき理由は他にあるのではありません。私たちは既にイエス・キリストとともに生かされた存在、復活させらえた存在であるからです。
このように、聖書は復活とは既に信徒に起こった出来事である教えています。すなわち、私たちがイエス・キリストを信じた時、既に恵みとして与えられた出来事だと教えています。「ハイデルベルク信仰問答」も、イエス・キリストの復活を二つの局面で教えて、“既に与えられた恵み”だと説明しています。問45の答え二つ目の所をもう一度読みたいと思います。
“第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、
    ということ。”
 “今や”と言う言葉と“新しい命に生き返らされている”と教えています。教理問答も復活に缶汁教えて、復活とは、私たちが救われたこと、すなわち、私たちが新しい命に生き返らされている事だと教えています。それで、私は次のように言いたいです。“信徒は既に復活された存在である・”
2、二つ目の局面
 しかし、聖書は、私たちに復活の二つ目の局面もある事を教えています。復活の二つ目の局面は、“完全な復活”です。すなわち、イエス・キリストの再臨の時ある“復活”です。これに対して教理問答は次のように教えています。問45の三つ目のこたえです。
 “第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に
     満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。”
 第三の答えは、“復活とは将来に起こる”事だとで、イエス・キリストの再臨の時ある出来事だと教えています。
教理問答はこの出来事をキリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である”と説明しています。“保証”と言う言葉に込められている意味は、既に起こった事を意味するのではありません。“保証”は“今ないものに対する担保のような事です。“私がお金を返そう”と言ってその証拠として見せるのが保証です。それで、“保証”と言う言葉は、その実体はいつも未来にある事を前提する表現です。
 
それで、教理問答の第三の答えは、私たちにキリストの復活のもう一つの局面、すなわち、“復活の頂点”を教えています。イエス・キリストの復活は、信徒の生き方の中で、“罪からの解放、救われた恵み”を意味します。しかし、もっと進んで、もっと完全なものを待ち望むことを示します。それは、イエス・キリストの再臨の時ある。“体と魂の完全な復活”です。
今日読んだコリントの信徒への手紙一15章50節以下の御言葉を見たいと思います。50節は、今まで、私たちが学んだ内容が記されています。
“ 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。”
 コリントの信徒への手紙一は、この世を大きく二つに分けて説明しています。“余の知恵と神様の知恵”、“肉と霊”、“罪と命” です。つまり、それらの事は決して共存する事が出来ないと語っています。すなわち、この世の知恵で神様の知恵を知る事が出来ない、肉は霊の世界を悟る事が出来ない、罪は命と共存する事が出来ないと言う事を」教令指定教えています。
 しかし、15章は、復活の章で、“復活がもたらす色々な驚くべき事”が記されています。52節です。
“ 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。”
 53節です。
“ この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。”
 コリントの信徒への手紙はの全体的な主題は、二つの事が共存できないと言う事です。“死と命が共存だ機内という事”、“ 世は自分の知恵で神を知ることができない事”、に関する教えです。しかし、最後の日、イエス・キリストが再臨される日に、ラッパがなる時、“朽ちるべきものが朽ちないものを着ます”、 “ 死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります” 最後の日、信徒は単に死なない存在になるだけではなく、“死を表すすべてのものが、命に変わります。
 それらの事が私たちに教えていることは何でしょうか。私たちの主イエス・キリストが再臨される時、“完全な復活”が行われる事です。ひとつ目の復活、すなわち救われた時、私たちが経験する復活も私たちに新しい生き方を与えて下さる復活ですが、それは、部分的です。なぜなら、私たちが救われて永遠に命が恵みとして、私たちに与えられたとしても、私たちは肉と言うもとを持っているからです。私たちがイエス・キリストを信じて救われた時経験する復活は、肉の復活ではなく、霊的な復活であり、肉を脱ぎ出す準備をする復活であります。
 しかし、イエス・キリストが再臨される時、私たちはもう一つの復活を経験します。その復活は完全な復活で、単に“肉を脱ぎ出す”限りがある復活ではなく、“肉自体がイエス・キリストによって完全にかわる復活です。その日に私たちが経験する復活は、この世を脱ぎ出す復活ではなく、“この世のものが完全に新しくなる復活”です。15章52節ウィもう一度読みましょう。
“ 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。”
 このみ言葉は、テサロニケの信徒へ手紙一の御言葉を思い起こしてくれます。テサロニケの信徒への手紙4章16〜17節です。
4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
 
そうです。以前、死に襲われた肉は、最後の日、栄光の体に復活されます。私たちより先に天に召された人々は、今、この肉の復活を待ち望んでいます。イエス・キリストが再臨される時、“キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。” “肉”と言う言葉は、“汚れた事”、“悪”、“神の怒りの下にあるもの”を示します。しかし。イエス・キリストが再臨される時、その肉は、完全なもの、栄光の体に復活されます。これが復活の二つ目の局面です。
 復活の信仰が与えてくれる有益ー二つの観点から
 今まで、私たちが経験した、また、経験する復活がどう言う事であるかを学びました。“では、キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。”
 信徒にとって大切なことは、私たちが聖書を知っていることではなりません。すなわち、復活の意味を知っていることで終わると、その人は、神様の真の民ではないと言うことです。聖書を知ることは本当に大切です。しかし、聖書が私たちに示している知識は、“結婚した知識”です。結婚した夫婦は、共にご飯を食べます。共に寝ます。共に出掛けます。私たちが、三位一体の神様を知ると言う意味は、それと同じです。三位一体の神様と共に生きる事です。聖書が語る知識は、“結婚した人の知識”です。
 それで、私たちが追求するべきことは、“本を何冊読んだのか”、“私がその思想に関してどれほど知っているのか”ではありません。私たちが求めるべきことは、“さん三体の神様に対する私たちの信仰が私たちの生き方に具体的に具現される事”です。“イエス・クリスとの十字架の死が私たちの生き方に具体的に適用される事”です。また、“イエス・キリストの復活が私たちの生き方に具体的に現れる事”です。
 それで、ハイデルベルク信仰問答は、私たちに次のように聞いています。“キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。”
 1、ひとつ目の有益:既に生かされた存在、当然の生き方
 私たちは復活を二つの局面に分けて学びました。そのイエス・キリストの復活が私たちに与えて下さる有益も二つに分けて考える事が出来ます。イエス・キリストの復活が私たちに与えて下さるひとつ目の有益は復活のひとつ目の局面と繋がっています。す縄血、私たちがこの世で、“既に”罪から救われた事から見出す事が出来ます。復活の一つ目の局面が求める私たちの生き方は“当然の生き方”です。既に学んだローマの信徒への手紙6章4節をもう一と読みたいと思います・
“わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。”
“わたしたちも新しい命に生きるためなのです。”と言う言葉に注意を払いたいと思います。このみ言葉は、復活の目的が何であるかを確かに教えています。この御言葉は、私たちが既に復活された事とともに、なぜ、私たちが復活されたのか、その目的を確かに教えています。イエス・キリストは、なぜ、私たちを復活してくださったのでしょうか。“わたしたちも新しい命に生きるためなのです。” 罪と死に襲われた存在ではなく、生かされた存在、罪から救われた存在、復活された存在としていくる事です。すなわち、“当然の生き方”です。それで、ローマの信徒への手紙6章11節は次のように記しています。
 “ このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。”
 続けて12〜13節です。
 “ 6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。”
 ローマの信徒への手紙が示している復活された信徒の生き方は明白で明快です。私たちは罪に対して既に死んで、また、“既に”その死から復活されました。それで、私たちはどのように生きる必要があるのでしょうか。“当然の生き方”をする事です。罪の奴隷として生きるのではなく、肉の欲望に従うのではなく、不義のための道具として罪に任せて生きるのではなく、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、五体を義のための道具として神に献げる生き方です。“当然の生き方”です。これが、イエス・キリストの復活が与えて下さる有益です。
2)コロサイ信徒への手紙3章ももう一と見たいと思います。3章1節です。
 “ さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。”
 私たちが既に、キリストと共に復活されたことが記されています。それで、私たちがどのように生きる必要があるかも記されています。私たちは、“既に”生かされた存在に、復活された存在なので、“上にあるものを求める”生き方をしなければなりません。“上にあるものを求める”ために私たちは」どうすれば良いのでしょうか。3章5節です。
 “ だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。”
 8節です。
 “ 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。”
 9節です。
“ 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、”
12〜13節です。
Col. 3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
Col. 3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。”
“イエス・キリストの復活が私たちにどう言う影響を与えてくださったのでしょうか。”
“イエス・キリストが復活されたので、私たちの復活されました。それで、私は、もはや、罪の奴隷ではなく、復活されたものとしての当然の人生を過ごします。私は、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てるようになりました。私は、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けるようになりました。私は肉を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わったのは、イエス・キリストの復活の力が私を覆ってくださったからです。
 共にイエス・キリストの復活を表す信仰生活をしたいと思います。
 
2、二つ目の有益:イエス・キリストの再臨を待ち望むもの 
 そして、復活の二つ目の局面が私たちに与えてくれる有益があります。それは完全な復活です。イエス・キリストの再臨の時、私たちの体と魂が連合されて栄光の存在になる復活です。信徒にとってイエス・キリストの再臨の日は、全てが終わる日では決してありません。栄光の体に復活される日であり、神の栄光に満ち溢れる御国に入る喜びの日です。その希望が私たちにあるので、パウロ先生はコリント信徒への手紙15章58節で次のように教えています。
 “ 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。”
 イエス・キリストの再臨の時行われる復活の恵みを待ち望みながら、この世で、私たちは、動かされないようにしっかり立たなければなりません。
整理
 今日、私たちは、イエス・キリストの復活の二つ目の局面をとそお局面が私たちに信徒の生き方にどう言う影響を与える有益に関して学びました。イエス・キリストの復活は現在の私たちの生き方にも、未来の生き方にも影響を与える大きくて擬妙な出来事です。その復活の意味を正しく弁えて、復活の恵みを“既にいただいた存在”として、そして、“完全な復活の恵みをいただく事を待ち望む存在”として共に生きたいと思います。その復活の力が私たちの生き方を通して鮮明に現る信仰生活を共にしたいと思います。共にコリント信徒への手紙15章58節を読んで今日の説教を終わりたいと思います。
 “ 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。” 
 
                           アーメン
 
 
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